2015年8月7日金曜日

最後のお別れ

阿波踊りの鳴り物の音色が、こんなに悲しく聞こえたのは初めてでした。


子どものころから連に入って踊って、子どもが生まれたら二人ともちびっこ連から入れて、自分ももう一度踊りたいと言っていたNさん。あなたの最後の衣装は、踊りのゆかたでしたね。


たくさんの方が見送りの来ていました。
お通夜も告別式も100人は来られていたと思います。
私は受付のお手伝い。


熨斗袋には芳名カードと同じ番号をつけて、記帳ノートにも記録します。
葬儀が始まってからも、私はその作業に追われました。


―Nさん、最後まで私に働かせるんだから。忙しいわ~~。


Nさんがふっと笑う顔が浮かびました。
「さすが、motoさん!!」
って、声が聞こえてくるような気がしました。


葬儀はしめやかに、告別式は粛々と執り行われ、多くの人に見送られながら、真っ白な霊柩車に乗って、Nさんは、ご主人と娘さんに付き添われて、、、、、、出ていきました。


出棺の前、ご家族が最後のお別れをする様子を、私は一番後ろから、でも、しっかりと見ました。今日、告別式に来られなかったSさんに伝えるために。そして、Nさんのために。


ご主人、二人の娘さん、あなたを立派に見送りましたよ。
主人が、一瞬、片手で顔を拭うすがたがみえました。


私たちは頑張る隊なんて言ってたけど、本当に、共に頑張ったのは、ご主人であり、Nさんのお母さんであり、子どもたちでした。


この家族を作り上げたのも、Nさん、あなたでしたね。
本当にお疲れさまでした。


あなたの生きた証は、私たちの心の中にずっと生き続けます。


まだ、さようならと言えないけど。


Sさんがお葬式の来られなかったから、近いうちにお線香上げに行きます。


まだ、まだ、さようならと言えないから。
言いに行きます。

2015年8月6日木曜日

永眠ーあなたに会えてよかった

こんなに早く、Nさんは逝ってしまいました。いや、こんなに長く、Nさんは生きたのです。
深い悲しみの前に、不謹慎かもしれないけど、安堵があります。
がんばったね、と、何度も、その安らかな寝顔に語りかけました。
Nさんのほほえみに、微笑み返しました。
亡くなる前には、炊事や洗濯もこなし、重い物こそ持てないけど、家族のために母として、妻として、働いたそうです。食事も少し口にして、少しずつ回復しているかのように見えたと、Nさんのお母さんは言いました。


元気になると思っていたのに。
昨日の夜、救急車で病院に行ったあと、どうして朝までついていてあげなかったのか。


お母さんは、何度もこう言って、涙を流しました。


Nさんは、家族が来るのを待たずに、病院で息を引き取ったそうです。
さいごまで、家族のことを思いながら、自分のことより、家族のことを心配して、辛い体を気力で支えながら、子どもたちのために生きました。


わたし、死ぬ気がしないのよね。


これは、Nさんが何度も口にした言葉です。
でも、最後の入院では、その言葉は聞かれなかった。
もう、このまま終わってしまうのじゃないかしら、よくなっていく感じがしない、こんな弱気なことを口にすることもありました。


でも、彼女は、生きました。
余命を告げられていたのか、いなかったのか、それはわからないけど、彼女は最後まで生きることをあきらめませんでした。


亡くなったのは、朝,7時2分。前の晩から、苦痛を訴えていたけど、苦しむこともなく眠るように亡くなったのではないでしょうか。そのことが、どれだけ、家族にとって救いになるか、Nさんはしっていたのでしょうね。きっと。


スキルス性胃癌の病巣は、いったんNさんの体から消え去ったように見せかけ、また、猛威を振るい、彼女の体をむしばんでいきました。でも、その間、どれだけ、復活したか。先の見えないトンネルの先に、点のように見える明かりを頼りに、必死で通り抜けようと頑張ったのです。


でも、わたしには、そこはトンネルではなかったように思えます。色とりどりの花が咲き、鳥が歌い、風が吹く、彼女の終焉に向けての花道だと、私にはそう思えるのです。


枕元に、娘さんが誕生日に送るつもりだった本がおいてありました。
あなたの物語―人生でするべきたった一つのこと』水野敬也著


 あなたに追いつこうと頑張って走って、走って、、、、、でも、勝ったのはあなたでした。


Nさんは、どんな気持ちでこの本を読みたいと思ったのか。




本が好きだったなあ。私のも貸してくれたあの本、また、読みたいな。
グルメの本買って、病院で見ていたなあ。
子どものことばかりしゃべってたなあ。


Nさんは、もしかしたら、今、いろんな人に自分の想いを伝えているのかもしれません。私が寝られないのも、彼女からのメッセージがたくさんあるのだろうと思います。


いつも、彼女の具合が悪くなったら、虫の知らせで伝わってきました。入院しても、必ず、わかる。
私に隠し事はできないよって、いつも笑ってたけど。


亡くなるときは、なんのしらせもなかったね。
本当に、何も感じなかった。


そんな人なんだね、Nさん。


明日はお通夜。明後日は告別式。
たくさんの友達が来てくれるよ。最後のお別れに。
わたしはどうしようかな。
いつ、最後のお別れを言おうかな。
言えるかな。


まだ、いっぱいしたいこと、いっしょに行きたいとこあったけど。


ねえ、私に貸してくれた本、貰ってもいいかしら。
その代り、Nさんが気に入った水野敬也の本、あげるから。持って行っていいから。
あの本、わたしのちょうだい。


早すぎたよね、もっと、生きたかったよね。
でも、Nさんは走りきったよ。
本当に、がんばった。


あなたに会えて、よかった。


本当によかった。


ありがとう、Nさん。


ありがとう。

2014年8月30日土曜日

入院 5クール目

4クール目の退院から5クール目の入院までは、今回、3週間以上ありました。
お盆、家族旅行、子どもの吹奏楽コンクール、文化祭、いろいろな行事をこなして、Nさんは5クール目の治療のため今週の月曜日に入院しました。


8月の終わり、いつものように、Nさん,Sさん、そして私の3人でランチに出かけた。いつもはSさんの車だけど、今回は私の車で、少し離れた鳴門の海が見えるところまで行った。
水揚げされた魚がそのまま調理されて出てくる、漁港の食堂で私たちは昼食をとることにした。
混んでいたけど、おしゃべりをして待つには、そう退屈しないくらいの時間だった。
どれを食べようか迷ったあげく、Nさんは、また病院で生ものが食べられなくなるから、海鮮丼を選んだ。
ー私もNさんが入院している間はコーヒー断ちしてるから、退院したらコーヒーがどんどん減っていくよ。
「もう、そんなことしたら胃がわるくなるんとちがう」
Nさんが、いった。苦笑い。


店の後ろは、すぐ海。
私たちは食事のあと、「さんぽ道」と書かれた案内を頼りに、防波堤の先に出た。
澄み渡った空、どこまでも続く海。
しばらく、ことばがでなかった。


みんな、きっと、この日の海の青さを忘れないだろう。
人間は、この海の広さに比べればちっぽけな存在だけれど、「生きている」ということは、本当にかけがえのない幸せ、、、「奇跡」なんだと。


この日の夜、「24時間テレビ」でガンと戦った女性の実話のドラマがあった。
ー今、テレビ見てます
「私も見てる。去年までは他人事だったのに、、、、」
ー今日、ランチ食べに行けたのも、海が青かったのも、こうして出会えたのみ、みんな奇跡なのよ。


ありのままに、、、の歌詞が頭に浮かんだ。
あるものを受け入れ、ありのままに生きる
今日もまた、大切なことをNさんが教えてくれた。

2014年8月12日火曜日

4クール終了

Nさんは以前の治療の際、副作用か胃の調子が悪く、食欲が以前と比べて落ちていた。
4クール目の治療のため入院してからは、胃の不快感も取れ、逆に病院食の選択メニューを楽しみにしていたくらいだと言った。
がんばる隊のかれんだーを渡していなかったので、入院6日目くらいに言ってもいいかと聞いたら、今回は白血球が随分下がっているということ。お見舞いは見合わせ、LINEの画像でカレンダーを送った。
「今回はパワーアップしてるみたい」と、Nさんから返事が返ってきた。
―うれしいな


徳島では、毎年お盆の12日から15日まで阿波踊りで賑わう。
Nさんは、若い頃から有名連に入って踊っていた。
子供たちも昨年までその連に入って、毎年阿波踊りに参加していた。
でも、今年は退院が14日になるらしい。
―毎年、阿波踊りに行っていたのにな。、、、
と、夫がポツリと言った。
夫は阿波踊りに対して特別の思いを持っている。
それだけに、Nさんの心中を察したかのように言った。


熱気で溢れる街の様子をテレビで見ながらお盆を楽しむその裏に、今年は一抹の悲哀があった。


焦ってはいけない、ただ、平常心で。
でも、彼女の体の中でガンがどのように変化していくのか、誰にもわからない。
ひたすら、今を生きるのみ。


また、さりげなく、いいつもと変わらぬ時間が過ぎていく。
Nさんは、14日退院の予定を一日早く切り上げて、退院した。
次は、子供たちの文化祭を見るため、入院まで3週間以上あけるという。
5クール目は、9月の第二週からになるだろう。


それまでに、また、Sさんと3人でランチに行こう。

2014年7月31日木曜日

4回目の入院

朝、いつものようにコーヒーをたてて、口元まで持って行って気がついた。
今日はNさんの、4回目の入院日だ。
彼女が入院している間は、わたしもコーヒー断ちをしようと決めている。


ーまだ、病院には行っていないから、この一杯で終わりにしよう。
自分に都合のいいように理由をつけて、朝のコーヒーを飲んだ。
ーNさん、今日、入院?はやいなあ。
と、娘が言った。
ーそんなことないよ。いつもと同じ、3週間、家にいて、2週間入院治療。
娘は、ふ~んと言って、朝食のパンを頬張った。
何事もない、ふつうの、当たり前の朝の光景。


Nさんのウチでは、今日から、また2週間、その当たり前の光景がなくなる。
もしかしたら、もう、このサイクルがNさんの家族には当たり前になってきつつあるのかもしれない。


夏休みの三者面談で、高校2年の娘の担任が、東進の林修氏の言葉を借りて娘を鼓舞した。
「もう、今でしょ!!じゃない。受験競争にフライングもスピード違反もない!!他と差をつけるには、今から走れ」


私はその時、病気との闘いも同じだと思った。
フライングでもいい、スピード違反でもいい。打ち勝ってほしい。
ただ、ただ、それを願うばかり。


トモニガンバル隊のカレンダーを渡していない。
ーまた、お見舞い行くね
Nさんから「楽しみに待っている」と、返事があった。


彼女にとって、本当に役に立てることは何か、また、改めて考え始めている。

2014年7月29日火曜日

土用の丑の日

今日は土用丑の日。
Nさんがずいぶん前に、この日がうなぎの日だと教えてくれた。


前回の入院以来、食欲が落ちているといっていたNさん。
うなぎは食べられたかな。


Nさんは、以前勤めていたショッピングセンターの同僚を通して、うなぎを予約していた。


Nさんは、家族の誕生日はもちろんのこと、季節の行事も大切にしている。
そんなNさんを見習って、近所のスーパーへうなぎを買いに行った、。
店頭で、蒲焼きの香ばしいにおいがする。
ーひとつください


あと、何回、土用の丑の日に家族揃って鰻を食べるだろう。
Nさんのことではない。
土曜日の朝、ボランティア活動で5~6年の付き合いになる男性のMさんが、急死された。
70は近かったのかもしれないが、ついこの間もセミナーでお会いして、言葉を交わしたのだ。
そんなMさんが、ボランティアの最中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
うちで知らせを聞き、唖然とした。


人の命は予測不能だ。
だから、だれでも、考えたほうがいい。
今あることが、明日もあるとは限らないとうこと。


そして、Nさんは、誰よりも今そのことを考えているのだろう。
Nさんに言うことができるなら、こう言いたい。


  
  急がないで。ゆっくり歩いて。


でも、こんなこと、いえるわけがない。
彼女だってそうしたいだろう。できるものなら、そうしたいだろう。


夏休み、家族と一泊旅行に出かけるという。
なかなか、ご主人の仕事の都合がつかなくて家族で出かけるのはむずかしいと以前いっていたのをおもいだす。


まるで、氷のはった、悲しみという湖の上にたっているみたいだ。


あさっては、Nさんの4回目の入院。
戻ってくるのは、お盆の最中か。




  





2014年7月26日土曜日

内祝い

今日は、娘の出産の内祝いを配りに、朝早くから夫といっしょにでかけた。


先日、NさんとSさんが娘の赤ちゃんに会いに来てくれたとき、思いもかけないお祝いをいただいた。首がすわったら着られる服と、歩き出した頃に着られる服。
退院間もないのに、Sさんと一緒に買いに行ってくれたのだ。


Nさんはどんな思いで選んでくれたのだろうか。
自分は、孫の洋服を選ぶことができるのか。
そんなことはかんがえたくない。でも、娘の成人を祝い、結婚式を迎え、やがて孫の顔を見る、そんな当たり前の子どもの成長を、見たいと、、、願っている。


私は、娘が高校生の時に、そんなことは考えてことはなかった。当たり前すぎて、考えようがなかった。
でも、今はわかる。Nさんが教えてくれている。
当たり前のことなんて、ないんだと。


Nさんは、午前中、中学1年の娘さんが出場する吹奏楽コンクールを見に出かけていた。
お昼前に、内祝いを届けた。赤飯、紅白まんじゅう、のり。
それから、そのままSさんと3人でランチに出かけた。
私の夫は、Nさんと食事に出かけることを理解してくれていた。


限られた時間。。。
これは、Nさんに当てはまるのだろうか。


「わたしね、自分がこんな病気になるなんて、本当に信じられなかった」と、Nさんは言った。
ー健康体だし、よく食べるし、体力もあるしね。なぜかしら。
「ストレスやら何やら、いろいろあったからかな」


あと、10年は生きなければー
一度目の入院の後、Nさんが言った言葉が脳裏をかすめる。


10年のために、あなたは、いま、走っているの?あまりスピードあげないでよ、追いつけないから。